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平成27年11月例会(首里城公園ユニークベニュー)開催報告

当会は、平成27年10月の「大型国際見本市・展示会の県内誘致に関する提言書」を含め、本県のMICE(※1)への取り組みを積極的に支援しております。

※1 MICEとは、観光庁ホームページによると、
企業等の会議(Meeting)、企業等の行う報奨・研修旅行(インセンティブ旅行)(Incentive Travel)、国際機関・団体、学会等が行う国際会議(Convention)、展示会・見本市、イベント(Exhibition/Event)の頭文字のことであり、多くの集客交流が見込まれるビジネスイベントなどの総称。

その一環として、平成27年11月16日(月)の夕方から、当会11月例会を首里城公園でユニークベニュー(※2)として開催し、会員108名が参加した。
秋も深まり、少し肌寒く感じられたが、好天にも恵まれ、良い時期だった。

※2 ユニークベニュー(特別な会場)とは、観光庁ホームページによると、
歴史的建造物、文化施設や公的空間等で、会議・レセプションを開催することで特別感や地域特性を演出できる会場のこと。

ほぼ毎月開催している当会の例会は、通常は、ホテル宴会場で昼食時間帯に開催しているが、今回は初の取り組みとして、時間帯も場所も変えて開催した。

首里城復元に深くかかわられた、高良倉吉・琉球大学名誉教授に、首里城見学でのご説明と、講演講師をお願いし、お受けいただいた。

1.首里城見学 17:00~17:45
参加者が多数のため、4グループに分け、高良先生と3名の公園職員にご案内いただいた。
高良先生からは、首里城の歴史や復元について、多くの説明をいただいた。
時間が限られていて、やや速足になったが、首里城を初めて訪れた会員にはもちろん、
見学経験のある会員にとっても、実際に首里城復元に深くかかわった高良先生のお話は、歴史を見つめる良い機会となり、たいへん好評だった。
①首里城は中国や日本との交流の影響を受けているが、それらと違い、東西の軸線上に建物が配置されている琉球独自の方位観が示されている。
②復元にあたり、樹の種類の特定のため、宮内庁の資料なども使用した。
③正殿前の御庭(うなー)には、身分ごとに立つ位置を示すため、一定間隔で敷き瓦が並べられている。
④正殿復元には30億円程度かかっており、すべて国費。周辺部は財政投融資で復元。
そのため入場料を徴収している。現在も復元作業が続いている。
⑤正殿は、龍のモチーフや2層屋根3階建てなどの中国の影響を強く受けているが、
唐破風は日本の影響、2頭の龍が向き合う飾りやハの字の階段は琉球独特。
⑥南殿は御庭に対し後ろ向きのため、塗装されていない。
⑦構造模型は、鹿児島出身で西表島在住の宮大工が作った

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「国王頌徳碑」と「真珠湊碑文」を説明する高良先生と参加者     正殿前の御庭を説明する高良先生と参加者

 

2.講演「首里城復元の理念」 18:00~18:45 首里杜館1階 情報展示室
城壁内の4ヘクタールが国営公園、城壁外の14ヘクタールが県営公園とし、双方連携して首里城公園として整備されることになった。
首里城は地下に日本軍が司令壕を作ったため、沖縄戦で米軍に集中砲火を浴び、徹底的に破壊された。資料もほとんど消滅してしまった。
限られた資料から復元するため、専門家の英知を集める必要があり、各分野で日本を代表する下記の方々にお願いし、快諾いただいた。
①東大寺・法隆寺等、日本古建築の第一人者 鈴木嘉吉氏(元奈良文化財研究所長)
① 東アジア建築歴史に詳しい 稲垣栄三氏(東大工学部教授)
② 木構造学の大家 金田潔氏(京大工学部教授)
③ 日本の漆塗りの第一人者 小西晫也氏
高良氏は、復元年代を決めることになり、歴史文献の徹底調査を行った。
断片的な情報をたくさん集め、整理すると、首里城の変遷がややわかった。
首里城は1709年にほぼ全焼した。それから3~5年かけて再建された。
それ以降は、戦争による破壊まで大きな変化はなかった。
現役の城だった時期と言える、明治12年の琉球処分以前の姿に復元したいと考えた。
それゆえ、年配の方が覚えている首里城とは違うものになった。
徹底した首里城研究のため、専門家に加え、㈱国建など民間の専門家も加え、首里城研究グループが発足した。
その過程で、東京で250年前の首里城大修理の記録が見つかった。
文化庁の倉庫からは、昭和戦前の首里城解体修理の詳細な図面と記録が見つかった。
大正2年まで沖縄県庁職員として勤めた横内 扶(たすく)氏の資料で、子孫が保管していた貴重な資料も提供していただいた。
戦前を代表する歴史学者の秋山謙蔵が鹿児島で学んでいたとき、崩れそうな首里城を見学し、この城が輝いていた時代を明らかにする決意をし、その後実践していった。
東京美術学校(今の東京芸大)を卒業した鎌倉芳太郎は、沖縄の文化を研究するため来沖し、首里語をほぼ完全に習得し、写真をたくさん撮り、ノートと共に重要文化財に指定されるほどである。
伊東忠太(東大建築学教授)はアジアの建築と琉球建築に強い関心を持っていた。
鎌倉から、首里城解体危機の報を受け、保存資金確保に奔走した。
伊東の弟子で、琉球の建築を研究した田辺泰(早大教授)と田辺の弟子の巌谷不二雄が「琉球建築」を出版した。本に掲載されなかった写真も早大で探したら、見つかった。
これに「鎖之間」の写真があり、建物の形がわかった。
本土のさまざまな人たちの熱い思いで残った記録に応えなければ、という使命感に燃えた。

沖縄戦で沖縄県民の25%が亡くなったが、75%生き残ったことが、無形の沖縄伝統文化がよみがえることにつながったが、有形文化財の復元はまだまだ続いている。
首里城は60%程度の復元で公開したが、まだまだ国による復元作業が続き、新たな復元建物ができている。
正殿は木造なので、建築基準法の適用除外を受けた。沖縄の木を使いたかったが、ぜんぜん木がなかった。タイワンヒノキを台湾輸出規制前に調達した。国の役人も知恵を絞ってくれた。

首里城の復元は大変だが、やればできる、ことを示した。
沖縄の人々にも、旅行者にも、歴史を感じてほしい。

尚家の子孫が東京で保管している「尚家文書」のコピーを苦労して入手し、それを分析して、多くのことがわかった。例えば、首里城の塗装は、漆器職人が行ったこと、材木の種類別の伐採時期、など細かく記録されていた。

正殿の唐破風は、沖縄にない杉板に彫り込まれているが、薩摩側の記録からは、琉球から薩摩藩に屋久杉の調達を依頼され、贈られたことがわかった。

首里城は世界で入場者の多い城10位となったが、地元の見学者が少ないのが残念である。
沖縄の歴史や文化を理解するためには、首里城を知る必要があると思う。
首里城公園としては、子供たちに首里城を理解してもらうための取り組みをしているが、なかなか見に来てくれない。大人たちも。
首里城建築は、日本の木造建築技法が随所に駆使されていた。
民主党政権時代に、首里城を県に全面移管する方針が示されたが、
そのとき、私は国が継続している復元がもっと進んでから、と意見した。
県には、円覚寺跡、松崎馬場跡、中城御殿跡の復元が待っており、資金と人材の育成が必要である。

首里城についてもっと学んでほしい。

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熱心に首里城復元について説明する高良先生

 

3.懇親会 19:00~20:30 首里杜館前芝生広場
食事と飲み物を用意し、芝生広場にテーブルを置き、立食形式で開催した。

最初に、比嘉事務局長から、今日の企画の説明を行い、かかわった方々に謝意を述べた。
次に、比嘉武 組織拡大・交流委員長による開会挨拶と、玉城義昭代表幹事から乾杯の挨拶があり、高良先生から大感動の話をいただいたので、ぜひ沖縄文化芸能をさらに知るべく「飛び込め首里城」続編の提案があった。
講師の高良先生も交えて、参加者同士、和やかに懇談に花が咲いた。
後半は、民謡ミニライブでさらに盛り上がった。
最後に、カチャーシー、そして大嶺滿代表幹事の閉会挨拶で、楽しいひとときを締めくくった。

 

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比嘉武 組織拡大・交流委員長による開会挨拶        玉城代表幹事から高良先生に記念品を贈呈

 

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民謡ライブに飛び入り参加された高良先生           参加者によるカチャーシー

 

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大嶺代表幹事による閉会の挨拶

当会初の取り組みだったので、慣れない準備や運営に苦労しましたが、 下記関係各位のご支援・ご協力により、無事終えることができました。
①事前準備・会場設備提供・当日運営対応をしていただいた、会場の首里城公園【(一財)沖縄美ら島財団】さま
②懇親会の機材設営・飲食サービス提供をしていただいた、ロワジールホテル那覇さま
③民謡ミニライブで歌っていただいた、石原朝泰さま他

この例会について、首里城公園より、同公園のMICEへの活用に向けた検討資料にしたい、 とのことで、参加者にアンケートへの回答をお願いしたところ、多くの参加者にご協力いただき、ありがとうございました。

今回の企画には高い評価を多くいただき、今後もユニークベニュー開催を希望される方が多くいらっしゃいました。
一方、設備面を中心に改善提案もありました。なお、アンケート結果は、首里城公園にお渡ししております。
以 上

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